Chapter 02
「自分の食い扶持は自分で 稼ぐ」起業を選択した経緯
31歳で会社を立ち上げた山本さんは、いつ頃から起業に興味を持たれていたのでしょうか?前章では山本さんが立ち上げた会社についてお伝えしましたが、本章では20代の頃のエピソードや起業に至った経緯について伺いながら、山本さん固有の価値観に触れていきたいと思います。
社会経験を積みたかった大学生時代
高校までを地元の静岡県浜松市で過ごした山本さんは、大学で上京し法政大学の工学部機械工学科に進学しました。「どんなことがやりたくて大学や学科を選びましたか?」と伺ってみたところ、高校までを地元の静岡県浜松市で過ごした山本さんは、大学で上京し法政大学の工学部機械工学科に進学しました。「どんなことがやりたくて大学や学科を選びましたか?」と伺ってみたところ、高校までを地元の静岡県浜松市で過ごした山本さんは、大学で上京し法政大学の工学部機械工学科に進学しました。「どんなことがやりたくて大学や学科を選びましたか?」と伺ってみたところ、高校までを地元の静岡県浜松市で過ごした山本さんは、大学で上京し法政大学の工学部機械工学科に進学しました。「どんなことがやりたくて大学や学科を選びましたか?」と伺ってみたところ、高校までを地元の静岡県浜松市で過ごした山本さんは、大学で上京し法政大学の工学部機械工学科に進学しました。「どんなことがやりたくて大学や学科を選びましたか?」と伺ってみたところ、
中学高校は部活動と受験勉強中心の生活だったそうで、大学ではそれまで経験したことのないことをやってやろうと考えた山本さん。大学生時代は学問的な勉強はそこそこ?に、バイトやサークル、仲間との麻雀や恋愛にと、ごく普通の学生生活を楽しんでいたそう。サークルに至っては合計3つの団体(ボクシング部、茶道研究会、テニスサークル)に所属していたとのこと。異色の組み合わせですね(笑)
20歳の山本さん。成人式の日は大学の試験で帰省できず、大学前で友人と。
割烹「磯や」マスターと。2019年会社の飲み会にて。山本さんは大学生当時の割烹店員姿に。
車の運転に興味持った山本さんは、免許を取ってすぐに、なんと配送ドライバーの仕事に応募します。2トンの冷凍車は初心者向きではなく何度か傷つけてしまいましたが、その度先輩社員が手作業でこっそり治してくれたそう。その他、ファーストフード店、和風喫茶、日雇い引っ越し作業員、デパ地下での売り子、居酒屋のキッチンなど、様々な経験をしつつ、そこで働く大人の姿を通じて社会の表裏を観察されていました。またこの時期はバブル期と重なっており、割烹料理店のバイトでは、企業の接待宴会の様子から大人たちの狂乱ぶりを肌で感じられていたとのこと。割烹料理店を選ばれた理由は「美味しい賄いご飯を出してもらえそうだから」食べ物のご恩は一生忘れないと、吉祥寺「磯や」さんへは今でも足を運ばれているようです。
自立心を自覚した本との出会い
山本さんとお話していると、「自分の食い扶持は自分で稼ぐ」という言葉が度々登場します。言葉として直接口に出さなくても、会話や行動の端々に強い「自立心」を感じるので、山本さんは私の中で「自立心の塊みたいな人」という印象がありました。「昔から自立心が強かったのですか?」と伺ったところ、大学2年生の頃に出会った「狼たちへの伝言」という本が大きなきっかけだったとのこと。
この本は、ジャーナリスト兼作家の落合信彦さんが若者に向けて書いた人生論で、「他者他人に頼らないということ。」「自分が欲しいと思ったものは自分の力で獲りに行く、それこそが生きる楽しさである。」といった、自立に根ざした考え方が色濃く書かれています。その後山本さんは落合氏の本をほぼ全て読むことになりましたが、この過程で「自立した生き方をして自由に生きたい」という自分の中にある願望をはっきりと意識するようになっていったそうです。
2016.05 自立と自律
まずはプログラマとしてのキャリアを積もうと就職先として選んだのは、地元浜松にあるソフトウェアベンチャーでした。そこは東大や京大を卒業し、大手企業でエンジニアとして活躍していた方たちが少数精鋭で立ち上げた創業7年目の成長期にある会社で、この時代の中でも合格率1%未満という注目企業でした。
技術力が高くてスペシャリストの集合体という印象が強く、どうしてもそこで働きたいと思った山本さんは、最終面接の時に、「給料はいりません。修行させていただいて仕事ができるようになったら給料をいただきます。将来的には独立したいと考えています。とにかく入れてください!」と役員の方たちに熱弁したそうです。
熱意が伝わったのか見事採用が決まり、その会社で社会人としての第一歩をスタートできることになりました。「給料はいらないので入れてください!」と言えること自体すごいのですが、面接の段階で「将来独立したいと考えています。」と正直に伝えるのは勇気がいりますし、自分に自信がないとなかなか言えない台詞だなと思いました。
希望する会社に就職した山本さんは、ひたすらエンジニアとしての経験を積む日々を送ります。深夜まで仕事する日も多かったそうですが、できないことができるようになる面白さに無我夢中。楽しかった思い出だけで苦しかった記憶は無いとのこと。そんな中、技術力の高い先輩たちが独立してもうまくいってない姿を見るにつれ「こんなに優秀な人たちでも難しいのなら自分が独立しても食っていくのは難しいだろう。。」と考えてしまいます。また日々の仕事の中で「自分にはエンジニアとしてスペシャリストになるほどではないな・・」とも感じていたそうです。新卒で入社して3年弱勤めた後、この道での独立に見切りをつけました。
決めたらまずは迷いなく我武者羅にやってみる。を体現されていたこの頃の経験からのスローガンだったんですね。
キャリアを積まなかったことで得たもの
次に狙いを定めたのはスポーツに関する分野で独立すること。得意だったテニスで勝負しようとテニスクラブに転職します。奇想天外で思い切った選択に周囲は驚いたそうですが、過去を顧みない山本さん自身は、学歴や職歴を無駄にしかねないこの選択にもったいないという考えはなかったそうで、寧ろここから先はこれで行くんだ!という先の世界しか見ていなかったそう。ところが1年半テニスコーチを続けた山本さんは、人に教えるという仕事自体が自分の適正に合っていないことに気づいてしまいます。
そこで今度は国家資格で独立しようと社会保険労務士の試験を受け合格、開業資格を得るために個人事務所へ勤めながら実務を学びます。社労士の専門家としてキャリアを2年積みますが、繰り返し作業ばかりで創造性のない仕事を一生続けるイメージを持つことができず、ここでもまたキャリアを捨てることになりました。
「20代のほとんどの人は自分が何をしたいのか、何ができるのか、なんてわかってないはずだよね。考えて悩んでいるより、動いて失敗することで自分自身が何者なのかが見えくるんじゃないかな。もちろん毎回真剣に自分の将来を考えて動いていたはずだけど結果的に今は違うことをしてる。学びがあったとすれば、自分に適正が無いものや興味が無いことをひとつづつ切り分けていった20代だったのかもしれない。(山本談)」
最終的に、インターネット分野での起業にあたり、最初の会社でのプログラミングスキルが強みとなり、活かされる結果になりました。
「3年弱の期間、真剣に我武者羅に覚えたスキルだから残っていたんだと思う。辞める時はこの世界に戻ってくるなんて考えてなかったはずだけど、7年のブランクにも関わらずすぐにプログラミングスキルが蘇ってきた。学べる環境を与えてくれた会社と仕事を教えてくれた先輩方には感謝だね。(山本談)」
教える仕事に適性が無いということ、社会保険労務士としての労務の知識、社長候補としての苦い思いも経営者になるには損はない経験だと思いますし、積まなかったキャリアたちは山本さんが自分に正直に向き合って軌道修正してきた証だと思います。また一度掴んだキャリアを惜しげも無く手放せるということは、新しいことに挑戦する自分を常に信頼していた証でもあるように感じました。
起業を選んだのは自立心と体験欲から
山本さんの根っこには「自分の食い扶持は自分で稼ぐ生き方がしたい」という自立に対する強い想いがありました。それと同時に山本さんの行動指針に大きく影響していたのが「体験欲」でした。以前から「一度限りの人生の中で体験できることをできるだけ多く体験したい。」という想いが人一倍強かったそうです。大学生時代を振り返ってみても毛色の全然違うサークルに所属されていましたね。
山本さんにとって起業という選択は、自分の食い扶持を自分で稼ぐ手段であるのと同時に、経験したことのないことを経験することができるという、体験欲を刺激する手段でもあったようですね。一般的には起業する人は、大きなお金を稼ぎたい、有名になり歴史に名を残したい、社会にインパクトを与えたいなど、いわば外向きの動機であることが多いと聞きますが、山本さんの場合はこれらいずれでもなく、自分と対話し自分に向き合う「内向きの動機」とも言える気がしました。
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